エピソード0【MSWになったきっかけ?】

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今回の事例は「私」です。

 こんにちは、現役MSWのヒナタザウルスです。

 今回はコラムとして、私にとって非常に意味のある出来事を書かせていただきます。 

 それは、「父の死」です。

 ただ、悲しい過去を語りたいわけではなく、私がまだMSWになっていなかった頃に、さまざまな方々の協力体制で父を自宅で最後まで過ごさせることができたことが、今の私の「MSWとしての矜持」ともいえるものを形成したことは間違いないです。

 そちらを記事にできればと思います。

父は50代で末期大腸がんが全身転移していました。

 このブログでは、事例の個人情報を考えて病名を書かないのですが、今回は家族の事なので書きます。

 父は50代で大腸がんステージⅣ。転移は数か所に及んでいました。私はその当時まだMSWになるつもりもなく、とにかく恐ろしいことになったと思っていました。

 私の家族は4人。私と兄、そして父と母。私も兄も実家を出ていたため、実家では父と母の二人。  

 それでも、母と父は強く、突然の展開にも子ども達に心配をかけまいとしてくれていたこともあり、私はしばらくは「事の重要性」をわかっていませんでした。

 そこからしばらくは、父はまれに入院をするものの、生活に大きな変化はなく(私が知る限り)、私は、自分なりに挑戦してみたかったベンチャー企業に転職し、社会福祉士という資格を活かすことなく、その企業を世界企業にしたいと思っていました。

生活は進み、癌は進行して。  

 ある日母から、父はあと数か月~半年かもしれないという連絡を受けました

 その時の母はやはり不安そうでもあり、私は、強い無力感を感じたことを覚えています。

 そんなときに母から「パパが自宅で過ごしていけるように、お医者さんと病院の相談員さん?がいろいろ調整してくれてるみたいなの。そのおかげで、自宅で過ごせる準備がどんどん進んで、パパは思ったより楽しそうにやっているわ。お医者さんはすごくしっかり紹介状を書いてくれたみたいで、近所の先生が来てくれることになったわ。病院のソーシャルワーカーさん?ってあなたが資格持ってる社会福祉士さんみたいよ。病院にも社会福祉士いるのね。」と言われました。

 私にとっては、学生時代の勉強以外で初めてのMSWとの出会いです。

 そして、実際に退院し、自宅で過ごすとなったときには 介護用ベッド、車椅子、歩行器など実家の環境がどんどん調整されていき、退院後すぐに在宅での担当者会議も開かれ、父を支援するチームができていきました。このチームが最後まで母の不安感を減らしてくださいました。(そののちには、在宅酸素の機械も、喀痰吸引の機材も、必要となったらすぐに運び込まれました。母は、「さながら移動病室ね。」と話していました。)

 私はその当時、思っていた以上に父に残された時間がないこと。母が、母方の祖母(施設入所)父方の祖母(療養病院入院)のKP(キーパーソン)をしながら父の看病をする姿に、やるせない気持ちになったことを覚えています。

 緩やかにですが、実家の近くへ戻る手段を考えはじめ、近所での社会福祉士の求人で病院を見つけると、意識して見るようになりました。

実際に終末期を迎え。

 私自身はその後、私の家族とも相談し、また、実家に関しては父が社長として事業を運営しており、そのフォローもしなければいけないと思い、実家の近くへ転職&引っ越しを行いました(詳細は省きます)。 

 そして、それなりの頻度で実家に泊まったりしながら過ごしていました。

 この頃の父は、すでに自立は不可。ストマは母が中心に交換。この頃の母の姿を考えると、私は今でも「家で看取ることの大変さ」をご家族に話さざるを得ません。 

 そして、たまに母が仕事などで外出するときに留守番をする私にとって、支えとなったのは「訪問看護師さんが24時間コール対応してくださること」でした。この事実は、当時の泣きそうになるほど不安な私に、とても安心感を与えてくれました。 

 そして、いま思えば非常に恵まれていたと思うのが医師です。実際には入院及び手術を行った病院は遠方で、訪問診療は近郊の病院の医師に来ていただいたのですが、どちらの医師にもとてもよくしていただきました。 

 また、家に来る訪問リハビリさんも、福祉用具業者さんも、みなさん本当に親切で、父と談笑してくださり、父の誕生会をしてくださったり、父が亡くなる直前まで仕事をしていた姿を見に来てくださったりしました。 そんな時に、私たち家族は多くの方に支えられていると実感していました。

最期を迎えて。

 そして、最後の時が来ました。この日の記憶は当然ですが、鮮明にあります。 

 実家で私が寝ている部屋に早朝に母が来て「パパ、死んじゃったと思う」と私を起こしてくれました。

 母はそこから、看護師さんに連絡し、来ていただきました。早朝にも関わらず、看護師さんはすぐに駆けつけてくださいました。1度も、嫌な顔も大変そうな顔もせずにコールに対応してくれた看護師さんは、今でも感謝しています。  

 また、しばらくして訪問診療の先生も駆けつけてくれました。死亡確認をしたあとに、母にも声をかけて、労ってくださった事も、忘れられません。

 なお、看護師さんは最後に父をかっこよく整えてくださり、大好きな読売ジャイアンツのユニフォームに着替えさせてくれました。これも、日頃から父と接していた訪問看護師さんだから出来たことです。 

 私が母を見る限り、「お看取り」について、後悔は無さそうに思いました。それが、とても大切なことなように思います。 

おわりに

 今回は、ヒナタザウルスのエピソード0。MSWとしての冒険の前夜のお話でした。

 詳細に省いたところは多々あるのですが、改めて、まとめてブログにしてみました。 

 いまとなると、訪問看護ステーションのサービスとしての「24時コール」であるとか、ビジネスとしての側面も知ってしまいました。 

 でも、あの時にサービスを調整していただいた結果としての、「家族としての安心感」や、さまざまな葛藤、母の勇気を忘れることはないと思います。 

 奇しくも今日、父の三回忌を行います。この時に父と母を支えてくださったみなさんが、父を取り囲んでくださっている写真は、いまでも父の遺影の横に飾ってあります。

以上、MSW(医療ソーシャルワーカー)ヒナタザウルスのブログでした。 

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